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企画についてなど、雑文

本当に久しぶりにブログを書きます。
ここ一月以上色々あってまともに文章を書いていない…というか書けないでいるのですが、少し実際的で、なおかつやや抽象寄りの文章なら少しはうまく定着するかもしれないので、そういう効能というか、リハビリ的な要素を期待して。
(でもこうやってPCに向かって文字を打ち込んでいる今も、どこまで文章が続いていくのか少しも自信がなかったりする)


新都社活動について。
つばき名義ではほとんど沈黙しているような状態ですが、一応発表・未発表をあわせて、去年の春頃から200枚くらいは書いています。いえ、十分に少ないんですけどね。
一番最近では「遅筆友の会」名義で、「かくも遅咲き短編集」に参加させていただきました。
これがまた果てしなく素敵な企画で、私はやはり単に乗っかっただけの人だったのですが、企画者さんや素敵な表紙の力添えのお陰で、随分と満足度の高いものになった気がします。お題もタイトルもこの上なく上等。
当たり前だけど、私一人がぽつんと存在しているだけではこういうものはどう頑張っても生まれてこないわけで、人と人が関わるというのは本当に発電なのだな、と思います。ほんの少しの交わりだけで膨らんで発光していくんだなって。それがめくるめく素敵な力になるのを内側で体験させていただいて、基本的に正の感情に大袈裟な私は幸せのあまり結構頭がおかしくなっていました。とても嬉しかったです。
そんな歓びの態度がまったく反映されていないぶっちぎりの〆切遅刻具合で申し訳なかったんですけど。


企画での自分の作品について少し。
(本当は語ったりするのは恥ずかしいことなんだろうけど)
 
「春過ぎて嗅ぐ、冬の印象」というタイトルはドストエフスキーのエッセイに「冬に記す夏の印象」というタイトルがあって、そこから少しもじったものです。一体何を書いてある文章なのか知らないのですが、筆者年表か何かでこのタイトルを見かけたのが確か高校生のとき。あまりのことに衝撃を受けました。夏の暑さや影の色は、冬の厳しい寒さの中で、焦がれるくらい鮮烈になるのだと。
とはいえこのタイトルも〆切に追われながら提出前の十分くらいで「うう、まぁこれでいいや」となし崩しに決めてしまったものなので、あまり優秀なものではないよな…と反省しています。

コメントや、ラジオや、或いは別の場所でも直接ないし間接的に感想を頂くことが多くて、もちろんリアクションがあるのは嬉しかったのですが、不思議な気分になりました。それほど受けのいい話でもないし、どちらかというと心理描写に終始する地味な話なので、「またこういうのね、はいはい」と言われるのかと。
だからこそ「今までと少し違う」と言われることが多かったのは嬉しかったです。自分の中では確かに今までとは違う地点から書いているぞ、という感覚はあったので。

頂いた感想の多くは、「謎」に焦点が合っていたようです。
私は「謎」を含ませたつもりはほとんどなかったのだけれど。
つまりは手記の「君」について。
ミノル君が憎んでいる相手は誰なのか?
そしてミノル君が強烈に好意を寄せていた相手は誰なのか?

前者については、私はかなり意識を持って書いていました。
けれど、頂いたどの感想も間違ってはいないのだと思います。
「君」は、誰かでありまた誰でもない存在のことではないかと思います。
ミノル君自身でもあり、そして一個人という枠を超えたもっと普遍的な、誰の内側にも潜む「憎むべき誰か」の部分なのだと。彼はささやかな優しさや澄んだ愛情を感受するのと同じくらいの強度で、その裏側に存在する負の塊についても、引き受けざるを得なかったのだと思うのです。そしてそれが自分の内側なのか外側なのか、うまく境界線を引くことが出来なかった。
だからこれは彼自身であり、姉であり、ヒキタサユリであり、他の誰かでもあるのだと。
なんとなくそういうイメージを持って書いていました。

後者については、ほとんど考えていなかった…というのが実情です。
というか、誰でも良かった。ミノル君は誰かが好きでもがき苦しんでいたんだな、という感覚だけがあって、それが実際に誰かでなくてはならないという意識がなかったのです。もちろんそれなりの想定はしていたけれど、厳密なものではありませんでした。
でももしかしたら、「姉ではないのか?」という意見が一番近いのかもしれない。姉に対する憧れのような焦燥感に近いものはかなり感じていたはずですし、その点に関しては強く意識していました。

どのみち、手記は手記なのです。
手記に描かれたことがどこまで実際なのかどうか、読む側にもわからないし、書いた本人にもわからない。
私たちが自分自身の書いた文章に全てをこめられないのと同じように。
あらゆるものが創作になり現実を欺いていくひそやかな過程でほんの少し、あるいはもう少し自覚的に、良心を痛めずにはいられないように。

この短編内で実在感のある人物というのは、恐らく「私」である姉だけだったのではないかと思います。
彼女はミノル君やヒキタサユリに対して強くコンプレックスを抱き、憎み、羨んでいるけれど、実のところ羨まれている彼らの方こそが、彼女のことを強く羨ましがっていたのではないかと思います。「自分で首を絞めながらしか生きられない人は、いつかどこかで臨界点を迎えてしまう」から。
ヒキタサユリについて、「何かを諦めた人だと感じた」と言われて、はっとしました。
きっとそうなのです。彼女は何かを放棄して創作の、幻想の世界の中に生きていくことを選んだから。
生き延びる強さを持たない人種は現実から脱落していくしかなくて。
姉は生きていく強さを持った人なのだと、私には思えます。
そういう彼女のくれる赦しを書いてみたかったのかもしれない。
そうは言ってもだいたいは後付なんですけど。

生き延びていくことがいいのか、真実に生きるために死んでしまうのがいいのか、
そこに善悪や正誤の判断を下すことは出来ないけれど、
私はやっぱり生き延びていくために死に続けることが必要なんじゃないかな、と思ったりして、
でもそういう思考は現実世界では歓迎されないから、
ときどき拙い創作などをしてほっと一息つくわけです。後ろめたく思いつつも。
現実でもよくごくつぶしと言われています。役に立たないですからね。
そんなわけで、読んでなおかつ感想まで下さった方の存在というものがこよなく愛しいです。
 
 
今は「文芸新都で短歌よもうぜ企画」に参加させていただくつもりで、ぼちぼち短歌の準備をしています。
実のところ「春過ぎて嗅ぐ~」を思いついたのも、とある短歌の歌人に関する講演会を聞きに行ったのがきっかけだったので、ここで短歌か…!とちょっと感動したりして。
そしてなかなか文章としてまとまったものをひねり出すのも難しい時期なので、短くぎゅっと集中して作ってしまえるというのも今の私には嬉しいところ。
とはいえ、やっぱり難しいです。
短いからこそ、ずっとずっと集中力や跳躍力が必要なんだな、と。
それも三十一音節という、乗り物としては極めて儚いものにそれを託すのです。
短歌、と聞くと反射的に「貝殻造りの牛車」という単語が浮かびます。
そこになにか途方もなく大きく質量のないものを載せてうまく運ぶのが歌人のお仕事なのですね。めまいがしますね。
上手に出来る気はしないけど、楽しめたらいいなと思います。


さしあたって最近はこういう感じです。

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